歴史メモ
聖徳太子は「存在しなかった」?
用明天皇の皇子、厩戸の皇子は
聖徳太子といわれているが、実は違った?
厩戸皇子は実際にいたが、聖徳太子は空想上の人物で
紙幣に出てきた肖像は、中国の絵のコピーであり、
実際の顔は違うと言われている。
超人的な能力は、後付けとも。
そのため、現在の紙幣に、聖徳太子は使われていない。
源頼朝が征夷大将軍になった前後の鎌倉時代の年表を
ざっくりまとめてみました。
1185年 壇ノ浦の戦い
1192年 源頼朝が征夷大将軍に(鎌倉幕府)
1274年 元寇(文永の役)
1281年 元寇(弘安の役)
ざっくりまとめてみました。
1185年 壇ノ浦の戦い
1192年 源頼朝が征夷大将軍に(鎌倉幕府)
1274年 元寇(文永の役)
1281年 元寇(弘安の役)
当時の中国が支配していた朝鮮を従えて、博多湾に
攻め入ったのが元寇(げんこう)。2回にわたり、日本を攻撃するも
いくつかの事が重なり、結果的に「壊滅な惨敗」となりました。
元寇
1274年 文永の役
1281年 弘安の役
中国(モンゴル帝国)の大軍とはいえ、中身は「元」に支配された属国、朝鮮民族が
中心の寄せ集め。さらに、大陸のほうからも、元に支配された
他民族から構成されるため、忠誠心など内部の問題がありました。
また、天候も日本に味方し「神風」というコトバも
生まれました。
一方、鎌倉幕府側は、戦いには勝ったものの、
土地を新たに得たわけではないので、「御恩」としての褒美などはなく、
これまた、日本国内では、内部不満がたまる要因となりました。
当時の元の船が、九州北部の湾の海底で発見され
話題にもなりましたよね。
攻め入ったのが元寇(げんこう)。2回にわたり、日本を攻撃するも
いくつかの事が重なり、結果的に「壊滅な惨敗」となりました。
元寇
1274年 文永の役
1281年 弘安の役
中国(モンゴル帝国)の大軍とはいえ、中身は「元」に支配された属国、朝鮮民族が
中心の寄せ集め。さらに、大陸のほうからも、元に支配された
他民族から構成されるため、忠誠心など内部の問題がありました。
また、天候も日本に味方し「神風」というコトバも
生まれました。
一方、鎌倉幕府側は、戦いには勝ったものの、
土地を新たに得たわけではないので、「御恩」としての褒美などはなく、
これまた、日本国内では、内部不満がたまる要因となりました。
当時の元の船が、九州北部の湾の海底で発見され
話題にもなりましたよね。
六波羅探題 鎌倉時代 再発見!日本
後鳥羽上皇が起こした承久の乱以降、
天皇を監視するために設置されることとなった六波羅探題。
歴代の北条氏が担当することになります。
六波羅探題の役割
・朝廷の監視 ・・・メイン
・京都の警護
・西国の支配(御家人の統制)